top of page
最新記事

WKAT制作者鼎談

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』は、柴幸男が作・演出を担い、台湾人アーティストとのコラボレーションでつくられて、東京芸術劇場のシアターイースト・シアターウエストで2劇場同時上演されます。この一筋縄ではいかない企画を、制作の皆さんがどのような思いで実現されたのか。

フェスティバル/トーキョー(以下F/T)副ディレクター河合千佳さん、F/T制作荒川真由子さん、ままごとプロデューサー宮永琢生さんという、3人の制作者の対話を記録しました。

(取材・構成 落 雅季子)

▼制作者への道

--まずお三方が、いつからどんな形で「制作者」という仕事に携わるようになったかお聞かせください。

河合千佳(以下、河合) 私は大学時代、デザイン学科でグラフィックや写真の勉強をしていました。ただ、高校演劇をやっていたこともあり、やっぱりお芝居をやりたい気持ちがあって大学1年生の時からreset-N(主宰・夏井孝裕)という劇団のお手伝いを始め、3年生で正式な制作になりました。制作として初めて仕事をした場所は、横浜の赤レンガ倉庫でしたね。2006年に夏井さんが文化庁の在外研修で渡仏されたのをきっかけに劇団を辞めて、票券やチケットセンター、企画製作会社でバイトをしながら、フリーの制作者として外部の仕事を受けていました。reset-Nが、にしすがも創造舎で稽古をしていたご縁でNPO法人アートネットワーク・ジャパン(ANJ)の方々とつながりができ、川崎市アートセンターのオープニングから指定管理終了(2007〜2012)まで務めて、F/Tに異動しました。

--制作業を選ぶことに迷いはありませんでした?

河合 なかったです。昔は照明とか舞台美術家になりたかったんですけど、立体で物を考えることができなくて……。演劇を企画する仕事がしたかったので、制作になりました。

--さて、宮永さんはどうして制作者の道へ?

宮永琢生(以下、宮永) 僕は、大学3年生の就職活動の時に「このままサラリーマンになるのはつまらないな」と思って(笑)。社会に順応して、うまいこと立ち振る舞うのが子どもの頃から得意だったんですけど、そういう自分の生き方に飽きてしまって。大人になってもこうやって生きていくのはしんどいぞと。

父親が演劇集団 円の演出家だったので、自分も何かつくりたい気持ちはあったけど、演出家になりたかったわけでもなく……試行錯誤の日々で父親の鞄持ちをしてました。で、ある時父親が、串田和美さんに呼ばれて、日本大学藝術学部演劇学科に教えに行くことになって、僕も付いていったんですね。そこで、柴くんに出会いました。彼が当時所属してた劇団バームクーヘンには座付き作家が3人いて、そのうちのひとりが柴くんで。それで、なんだかんだあって偶然僕もバームクーヘンを手伝うようになりまして。主にチャチャを入れる人として(笑)。この体制じゃこの劇団はどうにもならないまま売れずに終わっちゃうぞ、面白い作品を作る集団なのにそれはもったいないなと思って。集団としての心地よさの方が勝っちゃってたんですよね、自分も含めて。

--そこから柴さんの作品のプロデューサーになるまでの道のりを教えてください。

宮永 女優の黒川深雪さん(InnocentSphere)と企画公演をすることになって、一緒にtoiというユニットを立ち上げたのがキッカケです。深雪さんに「柴くんに脚本を書いてほしい」と言われて、2006年、toiの『Quartet』という作品で台本を書いてもらいました。その公演が終わった後ですかね、彼と一緒にやってみたいと思ったのは。この才能は世に出るべきだなと思って。

2000年代前半はシベリア少女鉄道さん(主宰・土屋亮一)やヨーロッパ企画さん(主宰・上田誠)などが小劇場で人気が出始めた頃で、同時に、前田司郎さん(五反田団)や三浦大輔さん(ポツドール)の世代が盛り上がってる時期でした。トガってたんで、次の世代は僕らが担うしかないと思ってましたね(笑)。で、柴くんに「一緒にやってみない?」という話をして、バームクーヘンが解散したタイミングで、ふたりで青年団を受けたんです。僕らが入った時に青年団演出部には、多田淳之介さん(東京デスロック)や松井周さん(サンプル)、吉田小夏さん(青☆組)などが所属してて。岩井秀人さん(ハイバイ)は同期です。僕は柴くんと一緒に演出部に入ったんですけど、あ、制作部じゃなくて。まだ演出家への未練のようなものがあって(笑)。でも彼と一緒に作品を創ったりしているうちに、やっぱり柴くんみたいな人がプロの演出家になるべきだなって思いましたね。柴くんって稽古場で楽しそうなんですよ。今もそうだけど、ずっと笑ってるでしょ。それが、自分にはできなかった。自分でも脚本を書いたり演出したり出演もしてみたけど、どれもしっくりこなかったんですよ。だから僕はまず柴くんを売ろうと。自分の生き残る道として。

--荒川さんはどのような経緯でF/Tの制作になられたのですか。

荒川真由子(以下、荒川) 私は、子どもの頃から両親に歌舞伎やミュージカルや宝塚に連れていってもらうことが多くて、舞台芸術には親しんでたんです。でも子どもの私は閉じ込められた空間に連れていかれるのが苦で、ぜんぜん面白くなかった。いつもロビーでひとりゲームボーイしてましたね……。でも演劇はずっと身近な存在だったので、大学に進学する時に演劇のことを学べる学部に入ったんです。大学が下北沢に近くて研究室にはいつも演劇のチラシがたくさんあって、たまたま手に取ったナイロン100℃(主宰・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の『ナイス・エイジ』(2006年)のチラシがめちゃくちゃかっこよかったんですよね。実際に観に行ってみたら、今まで観てきたものと全然違ってすごく楽しかった。そこから演劇にどっぷりハマっていったんですが、だんだん就職活動の時期に差し掛かってきて……。

演劇に携わる仕事がしたいなと思う中で、票券や、ロビーなどで働く人々が「制作」というセクションだということを知りました。それから阿佐ヶ谷スパイダース(主宰・長塚圭史)のお手伝いに行ったりしましたし、F/T09秋の制作インターンもやりました。ロビー周りだけでない、制作という仕事はどんな働き方をしているのか学ばせていただきましたね。その頃から、ご縁があっていろんな現場を紹介してもらって、フリーで制作助手をやっていました。でも基本的には事務作業とケータリング管理のルーティンワークで、いかに効率的に仕事を済ませるかばかり考えていて、だんだん作品や観にいらしてくれるお客様のことも見えなくなっていましたね。お客さんが楽しむ姿が見たいからこの仕事を選んだはずなのに、このままではよくない……という気持ちが湧いてきて。私、楽屋でずっとコーヒーの濃さ気にしてるなって。

河合 大事な仕事だからねえ。

宮永 大事大事。

荒川 弁当がまずいとか……。

河合 言われる言われる。

荒川 もちろん大事な仕事なんですけどね……! というようなモヤモヤを抱えていた頃、市村作知雄さん(現F/Tディレクター)が関内の十六夜吉田町スタジオを立ち上げるという話を聞いたんです。そこではジャンル拘らず100%プロデュースで、作品が育っていくように短期間ではないロングランを行うことを掲げていて、この人に付いていけば演劇の企画を学べると思って、これまでお世話になった方をたどって、市村さんを紹介していただいたんです。十六夜でのお手伝いは短期間ではありましたが、雑談も含めて市村さんとのお話は初めて聞くようなことばかりでとても新鮮でした。その後、KAAT神奈川芸術劇場で一般の方への貸館業務と施設管理の仕事を1年くらいやりました。その後、市村さんがF/Tディレクターに就任なさったのを機にF/Tの制作に入りました。

--道のりの差はあれ、皆さんがこうして制作者になられたわけですね。作品に話を移しますが、もともと柴幸男さんにF/T側が新作を依頼したのはいつごろなんですか?

荒川 具体的には、2015年の4月に1回目の企画書を書きました。それくらい前から準備していましたね。正式に依頼したのはもう少し後なんですが。

河合 F/Tでは、2〜3年先を見据えながら1年単位でプログラムを組むことが多いです。もちろん複数年に渡って展開する「マレビトの会」のようなプログラムもあるのですが、いろんな事情や文化政策の流れの中で、絶対に来年もフェスティバルがあるということが言い切れない……。だから声をおかけするのも「100パーセントの確約はできないけどご一緒したいです」という形になります。でも、なんとか続けてこれています。

--荒川さんから柴さんに声をかけたい思いがあったんですね。

荒川 そうですね。ままごとという形にこだわらず、柴さん個人と新作をつくりたかったんです。

--宮永さんにお訊きしますが、柴さんと台湾との関係はいつから始まってたんですか?

宮永 『わが星』でドラマトゥルクをしてくれた野村政之さんが、今作で台湾側のコーディネーターをしてくださっている新田幸生さんを紹介してくれたことが始まりです。たしか2015年の『わが星』再々演の時に観に来てくれたのかな。

--ままごとの活動方針として、海外展開にはもともとそんなに重点を置いていなかったですよね。

宮永 そうですね。柴くんも僕も、作品を海外に持って行くモチベーションはあまりなかったですね。海外に限らず、国内でツアーすることにも興味がなくなってしまった時期もあって。だからこそ都市を離れて、小豆島や横浜などで滞在制作型の作品をどんどんつくっていったんですけど、そういった経験を積み重ねるにつれ、その場所やその土地に暮らす人たちと演劇をつくることの面白さに気付けました。柴くんの戯曲には、家族でちゃぶ台を囲むシーンや、野良犬を拾ってきて飼い始めるような、ある種の日本型のステレオタイプな文化背景を描くことが多いのですが、柴くんがワークショップなどで海外に行った時に、そういうシーンを「あなたたちの国だったらどうなりますか?」って俳優に訊いてリクリエイションするのが面白かったみたいなんですね。今作も来年台湾で上演するのですが、今回つくったものをそのまま持っていくのではなくて、台湾人キャスト&スタッフと一緒に作品自体を創り直せたら面白いよね、って話してます。

▼F/Tでの国際共同製作に結実するまで

--お話を伺ってみると、台湾側からとF/Tからの柴幸男への働きかけが、同時期にあったわけですね。

河合 はい。F/T内部でも、柴さんの作品についていろんな企画が上がっては消え、上がっては消え、という状況でした。

荒川 新田さんを交えてというよりは、日本側で形を探る時間がかなり長く続きましたね。

--そして柴さんから「台湾で作品を上演する話を進めている」とF/Tに話があったんですね。ところで、F/Tでの国際共同製作のスタンスはどういうものなのでしょう?

河合 予算もかかりますので、2~3年に1回しかやれないのが正直なところです。そのかわり、やるなら別の文化を持っている相手ときちんと関わる、ただ名前を借りるだけでは許されないというのがディレクターの国際共同製作に対する方針だと、私は理解してます。

--そこから幸福な形で台湾との共同製作が実現したという経緯を、もう少しお聞かせください。

河合 先ほどお話ししたように、荒川が最初の企画書をつくったのが2015年4月でした。企画会議を繰り返す中で、荒川がめげずに柴さんの企画を出し続ける。そんな中、2016年2月のTPAM(国際舞台芸術ミーティング)で、新田さんに初めてお会いして「時期が一緒ですね。それなら一緒にやれるかもしれませんね」という話をしました。

荒川 そうです。河合さんと私と新田さんの3人で会いましたね。

河合 新田さんと「既に完成している作品を紹介したいのですか? 台湾側として柴さんに求める条件とは?」という話し合いを、宮永さん抜きでしたんです。新田さんの回答は「柴さんがつくった作品ならば、その点はこだわらない」とのことでした。F/Tとしても、新作をつくっていただきたかったのですが、日本でつくったものをそのまま台湾に持っていくのもあんまり面白くないかなという思いがあったので、台湾人キャストでリクリエイションしたいという柴さんの意向もあり、2年がかりのプロジェクトが決まりました。台湾の助成金を受けられたことも大きな理由です。

荒川 新田さんが頻繁に柴さんを台南や台北に連れていってくれて、私も同行させていただきました。台南での『わたしの星』ワークショップの時、柴さんが「日本の高校生と肌感覚が近い」とおっしゃってて、これなら台湾でもつくれるという感覚ができたんだろうなと思います。

--荒川さんの熱意がこの国際共同製作を推進したんですね。

河合 そうですね、本当に彼女の熱意から始まっています。前年のF/Tが閉幕してからさまざまな助成金を獲得するために企画を詰めてプレゼンテーションしていく流れなので、去年の今頃にはこの形での上演は決まっていたと記憶しています。

宮永 本当は、柴くんが書き下ろした戯曲を日本全国あるいは世界の信頼できる演出家に託して「同日同時刻に上演するけれども、東京の劇場では公演しない」という案をままごとから出していたんです。F/Tなのに東京で公演しないとか絶対面白いでしょ! って思ってたんですけど、まあ……東京都の予算ですから現実的に難しく……ということで打合せはかなり難航しましたね。

荒川 私はF/Tで東日本大震災にかかわる演目に毎年携わってきたのですが、たとえば福島の方々の気持ちを理解したい、と思っていても「福島に住んでみないと実際わからないよね」という話も頂いたりして、なかなか近付くことができない、わかり合えないもどかしさを感じていたんです。でも、やっぱりどうしたって経験していないことはわからないんです。だから、過去に起きた事実を誰かの視点から勝手に描くのではなく、なるだけ自分たちに近づけて、外側にいた人間なりに伝える作品をつくりたいと思っていました。そこに、個人の人生を丁寧にすくいとる柴さんの作風や、東京だけでなく様々な土地で滞在制作されてきた経験を活かしてほしかった。私のそうした思いと、実現はしなかったけれども「全世界同時上演」という、ままごと側が温めてた企画とが合致したので、打合せを続けて道を探っていきました。

宮永 偶然が重なっていったんですよ、本当に。

河合 難産でしたけど、アイディアが浮かんでからはあっという間でした。台湾との共同製作が先に決まったけど、やっぱりフェスティバルじゃなきゃできないことをやりたいね、という共通認識がみんなの中でまとまりかけてきた時期に、シアターウエストで上演する可能性のあった作品が、そのタイミングでの上演が難しいことがわかって。

荒川 「シアターウエストが空きました」と柴さんに伝えたら「それ、両方使えないんですか?」って言われて、その場で2劇場同時上演が決定しました。柴さんは、作家として社会問題にどうアクセスしていいか悩まれていたようなんですが、シアターイースト・シアターウエストの同時上演だったらそこに結びつけられるというスイッチが入ったようで。

宮永 あの時に光が見えましたね。1年半くらいの打合せの過程で、柴くんがグッと前のめりに興味を示した瞬間でした。

--偶然が重なって生まれた、幸福な国際共同製作だったんですね。

▼若手制作者への言葉

--最後の質問ですが、皆さんから、若手の制作者や、これから制作者を目指す方々に伝えたいことがあればぜひ教えてください。

河合 何でも知っていて損なことはないから、演劇に限らずニュースなども見たり読んだりして、視野をひろげてほしいですね。私がF/Tの副ディレクターになって実感したのは、演劇はこんなにも社会とダイレクトにかかわっているのか、ということです。ただ演劇のことだけ勉強するのではなく、政治経済についても知っておいた方がいいし、社会人として様々な知識を身につけてほしいなと思います。

宮永 僕みたいに一緒にやりたいと思える作家とうまく出会えたらいいですけどね。そんなの本当に奇跡的なことなので。自分がそう思える作家に出会えなくてモヤモヤしてる人が、最近の制作者には多い印象があるかな。だから作家に依存するんじゃなくて、制作者として自分が何をしたいのか、何を創りたいかという意識をしっかりと持つことが大切なんじゃないかなと思います。当たり前のことなんですけど。

あ、あと「売れるのなんて簡単だ」って、僕はたまに言うんですけど。半分本気で(笑)。ちゃんとマーケティングやリサーチをして、今の演劇界の流れを勉強すれば1,000人くらいはお客さんを動員できますよ。たぶん。そして最低限、作家の才能があれば人気は出る。たぶん(笑)。でもそうなった時に、自分の信じてる部分をいかに捨てないでいられるかが勝負かな、と。そこを自覚した上で、表現することへのモチベーションを継続できる人が残っていく気がします。

荒川 若いうちはどうしても視野が狭いし、コミュニティも小さくなりがちですが、そこを打破して、会いたい人には会いに行く。観たいと思ったものは観に行く。とにかく行動して経験を積むことで、自分が何に向いているかも見えてきます。たとえ自分のやりたいと思ったことが自分に向いていないとしても、向かせる! という荒技もあると私は思ってます。粘り強く続けて、自分を信じることです。自分に軸がないと作家とも向き合えませんから、自分の軸をしっかり持つことが何より大事だと思います。

--本日はありがとうございました。貴重なお話を伺うことができて、良かったです。

 

フェスティバル/トーキョー17主催プログラム

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』

作・演出 柴 幸男

同じ時間、二つの場所で紡がれる物語。隣にいても遠い「距離」から見わたす未来

2017年10月7日[土]- 15日[日]

​東京芸術劇場 シアターイースト/シアターウエスト

詳細、チケットの購入はF/T公式ホームページ

まだタグはありません。
タグから検索
アーカイブ
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
新田さんブログ
bottom of page